残響
幼い心に疎ましく響いたあの音は
いつの間にか止んでいて
今の自分を支えるのは
かすかな残響になって
スクリーン
点
雨
小石
波の音
線
熱
騒ぎ
陽の光
面
海
疲れ
帰り道
vector
去りゆく人は音もなく
ただ前を見て
じっと見つめて
見送る顔も分からずに
ただ噛み締めて
じっと見つめて
悲しみは音も立てずに
静かに消えていく 音も立てず 声も出さず
すっと消えていく 大切なものほど
押し寄せる場所も まだできていない
この悲しみを せめて全身に浴びて
思い切り泣きたいのに
あまりにも静かで
あまりにも自然で
泣かせてもくれない
「私とは何か」という問いに関する、ひとつの仮説
私の感情と、私が本当にやるべきだと感じている理想の行動との間には、多くの場合ズレがあります。
健康のためにはランニングをした方が良いと本当は分かっているのに、疲れて苦しいから走りたくない、という感情が対立します。
早起きして仕事に行かなければならないと本当は分かっているのに、寒くてふとんから出たくないという感情が対立します。
逆に、行動を後押しするように感情が動くこともあります。
私の趣味である音楽鑑賞をしている間は、とても満たされた気分になります。
最初は乗り気ではなかった書類整理の仕事も、机に座ってやりはじめてから5分もすると、だんだんのめり込んでいって、いつのまにか楽しくなって集中していることがあります。
ここから先は、仮説の域を出ず、むしろ検証不可能な「思想」の類であることも覚悟しているのですが、最近考えていることがあります。
この体が本当にやりたいと考えていることや、本当になりたいものというのは、感情を超えたところで形成されているように思います。
そして、私の感情は、この体がとる行動を応援する、サポーターのような存在なのではないかと考えるようになりました。
きっと、私の体(とりわけ、それを支配する脳のはたらき)というのは、「私」という概念とは無関係に存在しており、「他人」との区別はないのだと思います。しかし、この体には、「感情」という専属のサポーターがついています。この「感情」というサポーターは、この体以外の応援はしません。この体以外の体が何を考えようと、どんな怪我をしようと、常に「他人事」です(同情はするかもしれませんが、それはこの体に起こったことに対する反応と比べれば、根本的に異なります)。「私」と「他人」の違いは、この「感情」というサポーターが、どの体の応援についているのか、という点から生じてくるのだろうと思います。
そうすると、「じゃあなんで、私の感情は、数多くの人間の中から、この体を専属サポーターとして選んだのだろう」という疑問が生じます。ともかく感情は、生命が生まれ、生き、やがて死んでいくサイクルとは別の次元に存在しているように思えてなりません。
あのとき
あのとき確かに僕たちがいて、
他愛もない話をして。