「私とは何か」という問いに関する、ひとつの仮説

私の感情と、私が本当にやるべきだと感じている理想の行動との間には、多くの場合ズレがあります。

健康のためにはランニングをした方が良いと本当は分かっているのに、疲れて苦しいから走りたくない、という感情が対立します。

早起きして仕事に行かなければならないと本当は分かっているのに、寒くてふとんから出たくないという感情が対立します。

逆に、行動を後押しするように感情が動くこともあります。

私の趣味である音楽鑑賞をしている間は、とても満たされた気分になります。

最初は乗り気ではなかった書類整理の仕事も、机に座ってやりはじめてから5分もすると、だんだんのめり込んでいって、いつのまにか楽しくなって集中していることがあります。

 

ここから先は、仮説の域を出ず、むしろ検証不可能な「思想」の類であることも覚悟しているのですが、最近考えていることがあります。

この体が本当にやりたいと考えていることや、本当になりたいものというのは、感情を超えたところで形成されているように思います。

そして、私の感情は、この体がとる行動を応援する、サポーターのような存在なのではないかと考えるようになりました。

きっと、私の体(とりわけ、それを支配する脳のはたらき)というのは、「私」という概念とは無関係に存在しており、「他人」との区別はないのだと思います。しかし、この体には、「感情」という専属のサポーターがついています。この「感情」というサポーターは、この体以外の応援はしません。この体以外の体が何を考えようと、どんな怪我をしようと、常に「他人事」です(同情はするかもしれませんが、それはこの体に起こったことに対する反応と比べれば、根本的に異なります)。「私」と「他人」の違いは、この「感情」というサポーターが、どの体の応援についているのか、という点から生じてくるのだろうと思います。

そうすると、「じゃあなんで、私の感情は、数多くの人間の中から、この体を専属サポーターとして選んだのだろう」という疑問が生じます。ともかく感情は、生命が生まれ、生き、やがて死んでいくサイクルとは別の次元に存在しているように思えてなりません。

死ぬときは、感謝の心だけをもって、人生を終えたい。

自分の記憶に、正面から向き合ったことはあるか?
たとえば自分の死を誰かに告げられて、まもなく記憶が消されることを告げられたとしたら。そして、生前に親しかった人々に、自分の声が届くかどうか、すでに分からないとしたら。
せめて彼らが近くにいて、自分の声が聞こえていることを祈りながら、私は空に向かって、どんな記憶を叫ぶだろうか。
自分が忘れても、この世界が覚えておいてほしい記憶は、何だろうか。
できることなら、この世界に覚えておいてもらいたい記憶は、きちんと紙にして現世に遺しておいて、空には悠々と、感謝の気持ちを表す言葉を浮かべたい。

「この世界へ。
この人生をくれて、ありがとうございました。
これまで与えてくださった、すばらしい一瞬一瞬に感謝しながら、もうそれはそれとして、これから起こることに、無心で向き合いたいと思います。」